内子の町並み、これまでとこれから
2022年7月4日(日)、愛媛県内子町で、はじめての中四国ブロックゼミが開催された。今年は、内子町の八日市・護国の町並みが重要伝統的建造物群保存地区の選定40周年。そのお祝いも兼ねたブロックゼミであった。前日の3日には、プレゼミとして、内子座で映画「坊ちゃん」の上映(愛媛国際映画祭の一環でもある)の後、塩尻市文化財課の渡邊泰さんによる特別ゼミ「保存と活用のはざまで~黒船がやってきた~」が開かれた。1977年に制作された「坊ちゃん」では内子の町並みも舞台となった。渡邊さんの「黒船」とは、奈良井で、竹中工務店が旧杉の森酒造を改修した高級宿泊施設「BYAKU Narai」のことである。渡邊さんは町並みの担当者として、竹中工務店のグループとどのようなやりとりをして改修を完成させたかを語ってくれた。
本番の4日は、午前中はまち歩き。天候に恵まれ青空のもと、すっかり整備された町並みの美しさを堪能することができた。町並みの中程で内子の町並み保存の先駆者であり立役者の岡田文叔さんにバッタリ。何年ぶりだろう。町家の庇下のバッタリに腰掛けて私たちを待っていてくださったのだ。
午後は再び内子座を会場にゼミ。文化庁・主任文化財調査官の梅津章子さんの講演『重要伝統的建造物群保存地区のこれまでとこれから』に続き、内子、引田、鞆の三地区からの報告が行われた。
内子からの報告は、内子町八日市護国地区町並み保存会長の芳我明彦さん。内子の町並みのこれまでとこれからを語り尽くされた(福川裕一)。
❖❖❖
1. 町並みの歴史
内子の町中には「廿日市(はつかいち)」「六日市(むいかいち)」「八日市(元、七日市)」という古い地名が残っており、八日市(ようかいち)と北隣の護国(ごこく)を含めた区域に伝建地区があります。
江戸時代の寛政12 年( 1800 )頃に書かれた『大洲旧記』という古文書には、大洲藩内の古記録や伝承などが収録されていますが、廿日市は時宗の開祖一遍上人が開いたといわれる願成寺の門前市として、室町時代の初めころから栄えていたということです。
戦国時代の天正の終わりころ、上手にある高昌寺方面にも市を作ろうということになり、豊臣秀吉時代に七日市が作られたようですが、これが伝建地区につながる最初の町だと考えられます。江戸時代初めの寛永4年(1627)、伊予を探索した幕府隠密は内ノ子にも宿泊し、「家二百ばかり」という記録を残しています。しかし、当時の絵図は未発見ですので、残念ながら江戸時代の町並みの様子はよくわかってはおりません。その後は市の浮き沈みの中で六日市が独立し、七日市は「菜っ葉」と「糠」を連想して響きが悪いということで 、延享年間( 1744-48 )に八日市に変更されたといわれています。江戸時代の内ノ子は、大洲城下町以外で商売ができる数少ない在郷町の一つとして栄え、江戸後期から明治にかけては木蝋生産の町として発展しました。
2. 町並み保存運動
そのたたずまいは、大正から昭和の終戦後までほぼ保たれましたが、高度経済成長で全国的に古いものが廃棄されていく中で、内子では昭和 40 年代後半に町並み保存の動きが現れました。折も折、昭和 50 (1975)年に「アサヒグラフ」に内子の記事が掲載され、保存運動に対する追い風となりました。
翌年、「八日市周辺町並保存会」が結成されました。しかし、まだまだ「町並み保存なんか何になる!自由な改造ができなくなるじゃないか!」という雰囲気の中で、手探りの出発でした。このような状況の中、役場職員が戸別訪問を行い、住民の話を聞きながら保存の意義を説いていきました。その結果賛同者が現れるとともに消極的ながら参加意識も芽生えました。
3. 重伝建築地区選定と全国デビュー
こうした活動の甲斐あって昭和 57 (1982)年に全国18番目の重伝建地区に選定されました。 さらに平成2年 1990 には、保存地区の 本芳我家・上芳我家・大村家の 三か所が国の重要文化財に指定され、併せて建物の修理・修景事業も進められたことで、内子の町並みは全国的にも知られるようになりました。ある建築士から「家が人を育てる」という含蓄のある言葉を聞きましたが、私も町並みで生活するうち、ここに住む誇りのようなものを感じるようになったのが不思議です。
4. 町並保存会の活動
町並み保存の基本姿勢につきましては、保存会規約に、保存地区は「歴史と文化に育まれた暮らしの場」であり、地区住民は「住みやすい環境と個性豊かな地域づくり」を行っていくことが謳われております。また、観光客に見せるための町並み保存ではなく、町並みを守りながら住む住民の生活状況を逆に見てもらうという考え方です。
ただ、江戸や明治の雰囲気の中で生活する住民に、「システムバス・水洗便所・システムキッチンなどはダメ」というのではいけないので、景観に影響のない範囲で現代的な生活も楽しんでもらっています。
やがて保存会では、活動の一つとして「七夕飾り」、秋の「観 月会」や正月飾りを焼く「どんど焼き」などの行事も行われるようになりました。このような保存会の様々な活動も、根本は「地域住民が楽しむ姿を外部の人に見てもらう」ということであります。このほか、次世代に伝統技術を体験させる壁塗り体験や、住民の意識啓発のための学習会も折に触れて行っております。また文化財の建物における婚礼行事が、本芳我邸では平成22 年に、上芳我邸でも平成 28 年に行われ、近年言われるようになりました「文化財の活用」という流れの、ある意味先駆的な催しになりました。
5. 町並みの「いま」 ~空き 家と高齢化~
さて、現在の課題はいくつかありますが、主なものは空き家と住民の高齢化の問題です。空き家については、内子町の「うちこんかい」(内子に来ないか)という事業の中で、町内全域の空き家情報や移住の不安に関する情報の提供などを行っており、保存地区への入居・出店希望もここが窓口の一つになっています。
保存地区では、今までに地域おこし協力隊の人が定着してゲストハウスを経営する事例や、一棟貸しのゲストハウスを経営する事例があり、出店も少しずつながら出てきております。保存会は町並保存センターと協同で出店や入居希 望があれば事前面談を行い、町並み保存の趣旨や景観への配慮・協力について話しており、経営者の理解を得て、少しずつながら店舗数は増えてきています。空き家が一軒でも少なくなることを目指して、取り組みを続けていきたいと思っています。
高齢化につきましては、たとえば家の修理に際して「修理しよう」という意欲が減退したり、修理費用の補助はあるものの、場合によっては自己負担分がまさに負担になったりする可能性も考えられます。また、高齢者の跡継ぎが内子にいない場 合、将来空き家になる可能性があります。 さらに、「跡継ぎがもう帰らないんで、家を売りたい」という要望も出てくるかもしれません。ある伝建地区では、地元の人が買い支えたという話も聞きましたが、「どの伝建地区でも」というわけに
はいかないのが現実だと思います。
6. 町並みの「これから」
さて、「伝建地区のこれから」ですが、八日市・護国町並保存センターで行われた「これからの町並み」と題したパネル展で、町おこし協力隊からゲストハウス経営を行っている山内さんは「人の集う場として活かしたい」、さらに「町並みや古民家を自分で勉強して、まず好きになってもらうとともに、家主が大切にしてきた古民家に敬意の気持ちを持ってもらいたい」という感想を寄せています。古民家の活用の形態は業種によって様々だと思いますが、出店する人には、町並みや保存活動の歴史を理解してもらい、町並みの良さを来る人に話せる、そして語れる経営者になってもらいたいと思っています。
町並みが実家で、松山市で暮らす梅田さんは、「実家のあたりがテレビに出るとうれしい。昔はいろいろな意見があったが、町並みをよく残してくれたものだと思う。」と述べ、今後については「松山居住の方が長くなり、生活の基盤も松山になっている。子供も町並みへの関心をどの程度持ってくれているかわからない」ということで、「今後のことは決めかねている」と述べています。 内子の町並み出身で、大阪で暮らしていた 私の知人からは、子供さんが「自分のふるさとは大阪や!」と言っていたという話を聞きました。町並みで育っていない人に、「お父さんやおじいさんの故郷である内子の町並みに愛着を持ってほしいと」いうのが土台無理なのかもしれません。しかし、内子を離れている方はご家族や知人に対して、機会をとらえて町並みのこと、家のことを語っていただきたいと思います。
そして、ご家族と一緒に度々内子に帰省していただきたいと思います。そうすることで、町並みに対して次の世代が少しでも愛着を持ってくれるのではないかと期待するところです。ある伝建地区の会で「家は、持ち主の子孫がずっと住み続けるのが理想だが、難しい場合は誰かが住めばよい」という話を聞きました。内子の町並みも、私が生きてきた 67 年の間でも、住人の入れ替わりは結構ありました。
住む人が家主の子孫ではない場合には、保存の意義や趣旨を理解し、町並みに住むことに良さと誇りを感じながら、 住民と良好な関係を結んで住んでくれるよう働きかけていく必要があると思います。
おわりに
これから、いかにして町並みの家に住む人を確保し、いかにして町並みを保存しながら次世代へ継承していくかを大きな目標に、若い人にも話を聞くとともに先進地の事例も参考にしながら、保存会・行政・住民がともに手を携えて考えていきたいと思っています。
最後に、この催し開催にご協力をいただきましたすべての関係者の方々に厚く御礼申し上げます。
Comentários