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福川裕一

妻籠宿保存50周年、 倉敷と金沢も50周年、今年は日本の町並み保存50周年


2月3日、妻籠宿保存50周年を記念する式典が南木曽会館で開催された。式典は三部構成で、第一部が記念式典。妻籠を愛する会・会長の小林俊彦さんの開会の辞、同理事の藤原義則さんの経過報告のあと、来賓からの祝辞そして感謝状贈呈が続いた。第二部は今年で42年目を迎える妻籠冬季大学講座。これが言わば記念講演で、上野邦一奈良女子大学名誉教授が「妻籠宿の保存で学んだこと、そして恩返し」と題して「講義」を行った。第三部が祝賀会。会場には、15年にわたり全国町並み保存連盟の代表をつとめていただいた林文二さんのお元気な姿もあり、最後は参加者全員が輪になって木曽踊りに興じ、記念すべき50周年を祝った。

 50年前の1968(昭和43)年は、長野県の明治百年記念事業として妻籠宿保存計画が決まり(4月)、妻籠を愛する会が設立され(9月)、保存工事の起工式とその後の年中行事となった文化文政風俗絵巻之行列の第一回(11月23日)が執り行われた年である。二週間後、2月18日に倉敷で行われた全国町家再生交流会で、伊藤香織倉敷市長が「今年は倉敷の町並み保存50周年です」と挨拶され、ハッとした。倉敷市が金沢市とともに全国に先駆けて自治体でははじめて町並み条例(倉敷市伝統美観条例、金沢は金沢市伝統環境条例)を制定したのも1968年であった。1968年は、わが国の町並み保存の画期となる年であったのだ。そして今年はその50周年。記念すべき年なのだ。

 それにしても、その後も妻籠の先駆性は際立っている。1971(昭和46)年に定めた「妻籠宿を守る住民憲章」は、「保存優先の原則:売らない、貸さない、こわさない」を柱に構成され、住民よる自己マネジメント組織「統制委員会」とともに、全国の町並み運動のモデルとなった。。1974(昭和49)年、今井、有松の人々ともに町並み保存連盟を結成し、1978(昭和53)年から始まった町並みゼミには毎回大勢で参加、全国からの参加者は妻籠の報告に聞き入った。1976(昭和51)年の最初の重要伝統的建造物群保存地区選定では、周辺を含めた1245.4ヘクタールを保存地区とし、その後の文化的景観を先取りした。1982(昭和57)年には、町並みを恒久的保存を目指して妻籠宿保存財団を設立した。当時のナショナルトラスト運動はどうしても緑の保全が中心になっていたが、町並み保存でひとり気をはいた(その後1990(平成2)年に同財団は財団法人妻籠を愛する会となった)。そして現在、毎年2万人を超える外国人が歩いて訪れる国際観光地となった。

 妻籠の保存に尽力した太田博太郎先生の「信州には妻籠よりよく残っている町並みがたくさんあった」という話しが印象に残っている。大学院時代妻籠の調査を行い、その後妻籠に長期滞在し明治百年事業を指揮した上野邦一先生も、今回の講義で、妻籠の第一印象は「この町を保存するの?」だったと述懐された。この物語の意味は大きい。第一に、今はすたれて歯欠けの町並みでも、残されたものを大切にし、根気よく修景していけば、見事な町並みが蘇るということである(期限なく事業が継続される伝建地区制度はこの点で実に頼もしい)。第二に、町並み保存の成否は、リーダーとそれに続く人々の信念にかかっているということである。今回まとめられた記念誌を読むとそのことがよくわかる。これらの点でも、妻籠は全国の町並み運動に大いなる勇気を与えてくれる。それにしても、自分たちの宝に気づかない自治体が今なお何と多いことか。

 もちろん、妻籠も、少子高齢化、空き家問題、経済環境などの課題と無縁なわけではない。しかし、50年にわたり困難を乗り越えてきた妻籠は、次の50年も頑張ってくれるに違いない。100周年には、どのような姿が見られるにだろうか。

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