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芳我 明彦

若狭熊川宿重伝建選定20周年記念行事に参加しました

平成28年11月26~27日にかけて行われた標記の行事に参加しました。私は前日の25日に内子を立ち、小浜市に宿泊しました。というのも、私現在内子町誌の編纂に携わっており、家の菩提寺でもある高昌寺の江戸中期の古文書に、小浜の空印寺和尚に関する記述がありましたので、せっかくの機会に訪ねてみようと思ったからです。小浜も伝建地区に選定されていて、寺はその一角にありました。早速住職に事の次第をお話ししてお教えをいただきました。古文書の時代から現在まで、おそらく空印寺との交流はなかったでしょうから、約240年ぶりの交流になったかもしれません。

伝建地区の建物は二階の袖うだつが特徴ではなかろうかと感じました。城下町だけあって、通りは入り組んでいました。小浜城跡も訪れましたが往時を偲ぶよすがは石垣のみでした。

翌26日、小浜駅から近江今津方面行のバスに乗りましたが、やって来たバスが何と宮本会長のフェイスブック(FB)に紹介されていた「さバス」、車体に鯖の絵が描いてあり、1台しかないというバスに乗れてラッキーでした。いよいよ熊川宿に初めて足を踏み入れましたが少し時間があったので、同じく会長のFBに紹介されていた熊川城址に上ってみました。山麓の白石神社から、登山者のために張られた綱を頼りに、急斜面を這うように上りました。上方には階段状に削平された郭跡が何段か残っており、歴史的にも観光面でもいい資源になるのではないかと思いました。

会に先立ち、熊川の町並みをご案内いただきました。逸見(「へんみ」とは読めませんでした)邸内部→旧役場を活用した宿場館→陣屋跡の一角に設けられた葛加工場。昼食は鯖カフェを訪ね、有名な鯖サンドを注文、「鯖とパン」という意表を突く組み合わせは食べごたえがありました。おすすめです。熊川児童館で北信越町並みゼミ熊川大会が開かれました。宮本会長さんの開会挨拶の後、各地からの報告として熊川小学校児童の「子ども語り部」による地域学習の発表を皮切りに、遠敷丹後街道まちなみ保存推進会、小浜西組町並み協議会、今庄旅籠塾、山中温泉ひがしたに地区保存会、熊川宿地域づくり協議会から、それぞれ日頃の取り組みが紹介されました。基調講演では、サンケイスポーツの峯村昌子氏が町並みを輝かせる人と人とのつながりの大切さについて述べられました。そのあとのパネル討論は峯村氏と歴町センター大聖寺の瀬戸氏、金堂まちなみ保存会の福地氏、若狭熊川宿まちづくり特別委員会の宮川氏によって行われましたが、発表が主になって討論の時間が取れませんでした。 夕食を兼ねた意見交換会は会場をJA若狭上中支店に移して実施されました。まず京都から伝えられた「てっせん踊り」や、祇園囃子を彷彿とさせる白石神社の祭囃子が披露され、鯖街道による都とのつながりの深さが偲ばれました。ここでも小学校児童の活躍が見られ、文化の継承が着実に行われている姿に頼もしさを感じました。そのあと私を含めた遠来の参加者からの一言もあり、盛り上がった雰囲気の内に終了しました。

宿泊はバスで世久見という地区の民宿で、福川理事長さんと同室でした。恐らく私のいびきでご迷惑をおかけしたのではないかと思います。すみません。27日はバスで雨に煙る三方五湖の湖岸を通り、熊川宿を目指しました。最初は河内川ダムの建設現場見学です。高い位置から工事中のダムやいずれ湖底に沈む地区を見ることができました。次に熊川宿の町並み見学で、熊川番所から得法寺、重文荻野家をご案内いただきました。

そのあと私が出席したのは得法寺を会場とする第一分科会で、主題は「地域の資源を有効に活かしたまちづくり」でした。会では妻籠宿の藤原氏から保存運動の歴史を踏まえた活動報告があり、保存運動の草分けともいうべき妻籠の方のご意見には重みが感じられました。僭越ながら私は熊川城について、学問的な調査をまず行って整備をすれば、中世山城を肌で感じることのできる素晴らしい資源になるのではなかろうか。町並みにこれほど近い位置にあることも利点である、というような趣旨のことを述べさせていただきました。最後に「地域資源には建物だけでなく、ダム、自然、人の活動などいろいろなものがある。ただ、観光のために資源があるのではなく、資源がありそれを踏まえて観光があるのだ」という観光に対する基本的な考え方が示されるなど、大変有意義な会でした。日程の都合で残念ながら昼食後に土産を携えて熊川を離れ、帰途に就きました。

(内子町八日市護国地区町並み保存会

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